2017年11月17日金曜日

井伊直政公顕彰式 彦根駅前広場の銅像前に石碑建立

 彦根藩初代藩主を称える「井伊直政公顕彰式」が3日、彦根駅前広場の銅像前であり、彦根商工会議所青年部が設立した石碑の除幕式も開かれた。
 青年部は昭和62年に創立5周年を記念し、直政の銅像を建立。以降、城まつりパレードの行事の一環として顕彰式を開いている。
 今年は創立35周年を記念し、「彦根藩初代藩主 井伊直政公之像」と書かれた高さ1・6㍍×36㌢四方の石碑を銅像横に建立した。
 式で青年部の嶋津幸一郎会長は「銅像建立から30年が経ったが、誰の像かわからない観光客もいるようだ。彦根の玄関口を訪れる多くの観光客に知ってもらうことができればと思い、石碑を設けました」と話した。彦根商工会議所の小出英樹会頭のあいさつ、彦根鉄砲隊の演武の後には、もちの振る舞いや彦根古城太鼓の演奏もあった。

2017年11月15日水曜日

永楽屋の若手職人3人の技 宝華展で披露へ、後継者不足支援の補助金活用

 彦根仏壇の職人の後継者不足を支援するため、彦根市は仏壇製造の就労者を雇っている事業者に補助金を交付する制度(※彦根仏壇職人等後継者育成事業補助金)を実施している。そのうち永楽屋には彦根工場(甲良町)でこの制度を活用した若手の職人3人が働いており、同工場で18日から開催する「秋の宝華展」で3人の技を公開する。
 永楽屋で勤務している若手職人は、金箔押しが担当の中川茉美(まみ)さん(19)=西今町、彫刻と修復を担う中路祥子さん(25)=西今町、金箔押しと組立の小林孝之さん(31)=南川瀬町。
 中川さんは佐和山小3年生の時に授業の中で金箔押しを体験しており「すごく難しくて、職人の方の技を見て興味を持った」と職人を目指した動機を説明。「職人によって技が違っており、正解はないとわかった。色んな職人のやり方を取り入れてやりやすい方法を見つけるのが大切。これからも技術を身につけていきたい」と語った。
 中路さんは京都伝統工芸大学校の3、4年生の時に、永楽屋彦根工場で行われた宝華展で彫刻の実演のアルバイトしたのを機に関心を持ち、卒業後に同社に入社。「自分の彫りの技をもっと磨いて、価値を認められるようになって、将来は彫り師として生計が立てられるようになりたい」と意気込みを話していた。
 小林さんは親戚が彦根仏壇の製造に就いていたこともあり、30歳の時に入社。組立などをしていく中で「仏壇の構造がどのようなものか、どのような技が使われているかがわかってきた。(製造の中で)失敗することはあるが、その失敗をどのように生かしていくかは自分の心持ち次第だと思っている」と話していた。
 宝華展では中川さんが金箔押し、中路さんが彫刻、小林さんが組立の各コーナーで実演を披露するほか、中路さんが学生時代に制作した鳳凰の作品も展示する。
 ※彦根仏壇職人等後継者育成事業補助金=彦根仏壇職人の育成を目指して彦根市が平成27年度から導入。おおむね40歳以下で就労1年以内の新規就業者を雇用している事業者に、人件費の半額(上限月10万円)を最大3年間補助する制度。現在、永楽屋を含め計4人が対象となっている。
 永楽屋は18日から彦根工場で秋の宝華展を開く。大型や和風の仏壇展示、七職や修復の実演、金箔押しや蒔絵などの体験コーナーも。午前9時~午後5時だが、最終20日のみ午後4時まで。問い合わせは彦根工場☎0120(23)1466。

高宮町が彦根市との合併60周年を迎え記念の式典

 高宮町が彦根市との合併60周年を迎えたため、記念の式典が4日、高宮地域文化センターで開かれ、地元住民ら72人が出席した。
 高宮町は昭和32年4月3日に彦根市と合併。また高宮村から高宮町になった大正元年から105周年、江戸時代に中山道の高宮に宿駅が設置された慶長7年(1602)から415周年を迎えた。
 高宮学区連合自治会では合併60周年と、高宮町制105周年、中山道高宮宿415周年を兼ねた記念式典を開催。式では同自治会の大橋和夫会長が「商店街の衰退や少子高齢化、家族形態の多様化など地域の課題は多くある。高宮の発展のために今後も支援と協力をお願いしたい」とあいさつ。
 同自治会名誉会長の中村善一郎元県議のあいさつ、高宮町に彦根工場があるブリヂストン・スクリーンホールディングス・マルホの3社への感謝状贈呈、特別功労者と功労者への表彰があった。
 来賓を代表し、大久保貴市長は「魅力あるまちづくりを期待しており、市としても地元の3人の議員と力を合わせて高宮の発展につなげたい」と述べた。また高宮出身の八木嘉之市議会議長は「地元市議の3人はライバルだが、仲が良く、力を合わせていきたい。多くの先人のたゆまぬ努力により今の高宮の発展があると確信しており、先人の思いを次の発展のために受け継いでほしい」と語った。

2017年11月9日木曜日

桐生祥秀選手招き交流イベント

 陸上競技100㍍で日本人初の9秒台を出した彦根市開出今町出身の桐生祥秀選(21)=東洋大4年=を招いたイベントが5日、荒神山公園多目的広場であり、桐生選手と小中学生たちがリレーなどで交流した。
 彦根南ロータリークラブが創立40周年記念として開催し、陸上競技を学んでいる市内外の小中学生252人と彦根南RC会員、保護者の計約450人が参加。開始式で彦根南RCの高木淳一会長が「小中学生のアスリートの皆さんには桐生選手に続くことができるようがんばって頂きたい」とあいさつ。
 ウォーミングアップとして桐生選手を交えて全員でグラウンドをランニングした後、桐生選手が彦根南中の陸上部時代に練習していた広場内の芝山の「桐生坂」(通称)をダッシュで駆け上がり、桐生選手も子どもたちと一緒に駆け上がっていた。
 中学校選抜メンバーと、桐生選手を監督とした南中時代のリレーメンバーとの200㍍リレーには、当初走る予定がなかった桐生選手も急きょアンカーとして参加。バトンを受け取り走ると、歓声が沸き上がっていた。桐生選手の後ろを走っていた彦根市立東中2年の菊河隼人君(14)は「桐生選手は腕の振りが大きく、とても速くてすぐに遠ざかっていった。とても良い思い出になりました」と話していた。
 桐生選手や南中時代の恩師、同級生のトーク会で、恩師の億田明彦さんは「初めて見た時は肩まで髪があり、女の子みたいだった」と当時を振り返り、同級生の黒丸智弘さんは「中1のころは同じレベルでライバルだったが、(桐生選手は)2年生から急に伸びていった。全国大会でも頼れる選手だった」と語っていた。
 これに対して桐生選手は「褒められる関係でも無いので改めてうれしい」と笑顔で答えた上で「(桐生坂の)芝山での練習で鍛えられたことが今にある。中学校のうちは勝っても負けてもいいので、楽しんで陸上をやってほしい」とアドバイスした。
 小中学生からは「どうやったら桐生選手のように速くなれますか」「スタートした時に足を地面にするのはどうしてですか」などの質問があり、桐生選手は「トレーニングしかない。高校では技術面を学ぶが、特に中学校での下積みが大切」「足を地面にするのは最短距離で足を運ぼうと思ってするようになった」と答えていた。
 交流イベント前には彦根市子どもセンターで、桐生選手の彦根市市民栄誉賞特別賞の表彰式が開かれた。
 表彰式では大久保貴市長が「日本人初の記録は彦根市民のみならず、国民すべての誇りだ。これからも高いレベルで戦っていくことを頼もしく思っている。更なる高みを目指してがんばってほしい」とあいさつし、表彰状と記念トロフィーを手渡した。
 桐生選手は「栄えある賞を頂きありがたく思います。頑張ることで地元の彦根が盛り上がるなら、もっと盛り上げたい心がある。世界の100㍍でファイナリストになるという夢を目指して、しっかり頑張りたい」と述べた。表彰式後には市長や同級生たちとの記念撮影にも応じていた。

2017年11月7日火曜日

玄宮園内にある料理旅館の八景亭が今月30日に廃業

 玄宮園内にある料理旅館の八景亭が今月30日に廃業になる。明治時代から続いてきた店舗が無くなることに市民からは惜しむ声があがっている。
 八景亭は「玄宮園十勝」と呼ばれる園内の10カ所の名所のうち、井伊直弼らが茶席に利用していた臨池(りんち)閣の場所にある。茅葺きの数寄屋(すきや)建築で、臨池閣に増築した構造になっており、床面積約547平方㍍のうち半分以上が増築分。現在、茶席になっている鳳翔(ほうしょう)台も八景亭として利用されていたが、昭和40年代後半の火災後に市の所有になった。建物の創設期は不明だが、現店主の竹中清登(たか)さん(67)によると、曽祖父が経営していた明治・大正期は魚屋などを営み、八景亭と名付けられたのは祖父時代の昭和9年だという。
 店主の竹中さんは、インテリアデザイナーを辞めて28歳の時に帰郷し、料理の修業を経て三代目の店主に就任。以降、八景亭を守り続けてきたが、昨年2月に脳出血で倒れ、包丁が握れなくなった。また建物の老朽化もあり、廃業を決意した。
 竹中さんは75歳で店を閉じようと思っていたとした上で「何年か早かったが、いい時期だと思っている。寂しい気持ちはない」と話していた。会食などで利用していた市内の男性(54)は「八景亭は大名気分にひたることができる場所だった。無くなるのは非常に残念です」と語っていた。
 廃業後は市が管理することになり、市教委文化財課の担当者は「臨池閣(八景亭)は大規模修理の時期にある。調査した上で(増築部分の解体など)江戸時代の元の風景に戻すことを含めて検討していく」としている。
 店は休業中だが、今月5日に再開する。すでに廃業を知った人たちからの予約が入っており、4畳半、6畳半、13畳、20畳の部屋のうち、大部屋を中心に予約がとりにくい状態。18、19日のみ休み。問い合わせは八景亭☎(22)3117。

下着メーカー・美成産業のブランド美・REINE(ビ・レーヌ)の新作が完成

 彦根市後三条町町の下着メーカー・美成産業のブランド「美・REINE(ビ・レーヌ)」の新作が完成。先月17日から23日まで横浜市のそごうで新作発表会が行われた。
 同社は昨年4月にデザイナーの田中蓉子さん(京都市)と女性向けの補正下着「美・REINE」を開発。縦横に伸縮するシルクタッチの特殊素材を使用しているため、加齢と共に変化する体型を整え、若々しく蘇らせることができるという。
 新作は総レース製で更に高級感を出した。すでにカタログなどで販売しているほか、今後はインターネットでも発売。新作発表会でも好評だったという。
 経営企画部の宮脇徹部長(43)は「美・REINEの売上は今年が3500万円ほどを見込むが、新作の販売で来年は1億円を目指したい」と話している。問い合わせは同社☎(22)0371。

2017年11月6日月曜日

豊郷町出身の近江商人の本・近江の豪商・薩摩家三代記―薩摩治兵衛とその孫バロン薩摩 刊行

 豊郷町出身の近江商人や文化人として知られる薩摩治兵衛と息子、孫の生涯をまとめた本「近江の豪商・薩摩家三代記―薩摩治兵衛とその孫バロン薩摩」=写真=が刊行された。
 治兵衛は天保元年(1830)に犬上郡四十九院村で生まれ、幼名が與惣吉。数えで10歳になった頃には武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)の外池太右衛門の店に丁稚奉公。一人で野宿をしながら十数日かけて武蔵国まで向かったという。18歳の時には近江国愛知郡小田刈村(東近江市小田刈町)の織物問屋の小林家に仕え、慶応3年(1867)の38歳の時に独立して東京日本橋で木綿類の商売を開始。明治21年(1888)には東京日本橋に本店(薩摩商店)を新築し、木綿王と呼ばれるほどの豪商になった。
 治兵衛が51歳の時の明治14年12月4日に、後に二代目になる治郎八が誕生。明治33年2月に治兵衛を襲名し、2年後には大阪に支店を開業し事業拡大を図ったが、金融恐慌などの影響で昭和9年(1934)に薩摩商店が閉店した。
 二代目治兵衛の息子・治郎八が誕生したのは明治34年4月13日。東京の精華小学校の時から英語に関心があり、19歳の年の大正9年(1920)11月2日、法律留学という形で渡英。同12年4月にはフランスのパリへ移住し、翌年に帰国して東京の駿河台にフランス様式の邸宅を建設。以降、民間大使のように日仏交流に貢献し、その後もパリと東京を往復する生活を続けた。昭和4年(1929)にはパリ日本館の建設にも尽力。日本館建設の寄付の功により、薩摩父子にはフランス政府から勲章が贈られている。戦時中はパリに滞在し、日本の敗戦後の昭和26年5月12日に帰国。「バロン薩摩」として文化、芸術活動に貢献しながら自由奔放に生き、同51年2月22日に亡くなっている。
 本は「木綿王と呼ばれた男」「薩摩治兵衛商店の継承」「日仏文化交流の架け橋」「バロンサツマと私」「巴里(パリ)大学都市と私」の5章に分けて、初代治兵衛、二代治兵衛、三代治郎八(バロン薩摩)の生涯を解説。発行は芙蓉会。1400円(税抜き)。豊郷町観光案内所で販売しているほか、出版元のフォリオ(兵庫県芦屋市)で郵送販売も。